先日、ウクライナで傷ついた兵士たちの魂の叫びに耳を傾けている船越先生から、「戦争が回避できないこの壊れた世界に生かされている現実と、同時にすでに神の国に属する者とされているクリスチャンとしての使命の大きさとの間で、『何が正解なのか』、本当に分からなくなることがしばしばあります……闇が深すぎて自分たちが進むべき道を見失ってしまうことがあります」という悲痛な叫びが届きました。
その世界はまるで黙示録6–16章に次々と描かれた、ありとあらゆる災いが今そこに起きているように思えるような状況と言えます。しかし、それに先立つ5章では、子羊への賛美が高らかに歌われています。
ヘンデル作曲のメサイアでは最後に登場する喜びの歌声が、大災害に先立って歌われています。「屠られた子羊こそがふさわしい方です、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美とを受けるのに」(12節) と。
目先にどうすべきかが分からなくても、最終ゴールは明確に見えています。
だからこそ使徒パウロは、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と、ピリピ教会に書き送っています (4:4)。
1.「主 (ヤハウェ) に歌え 新しい歌を……御救いを日から日へと告げ知らせよ」
この詩篇とほぼ同じ詩がⅠ歴代誌16章23–33節に記されます。ダビデがエルサレムに都を定めてすぐに行なったことは、「十のことば」が収められた「契約の箱」を運び入れることでした。
その際、全イスラエルが歓声をあげ、様々な楽器を響かせる中で、彼は「飛び跳ねて喜び踊り」ました (同15:29)。そのときに聖歌隊によって歌われたのが、この詩篇だったというのです。
当時の常識では、このようなときに王が取るべき態度とは、自分を神の代理としての威厳に満ちた衣装で包み、自分は玉座に乗せられたままで運ばれ、上からしもべたちの踊りを見下ろし、神と自分とを並べて拝ませることでした。
ところがダビデは、人々の眼差しを忘れたかのように、自分を真の王を迎える「しもべ」の立場に置いて、「喜び踊った」のでした。
ダビデは、王権が創造主からの一方的な恵みであり、自分を王として立てるのも退けるのも神のみこころしだいであることを、前任者サウロの失敗を通して分っていました。
サウルは人々の信頼を得ようと必死でした。しかしダビデはこのとき、人々の目を創造主である神に向けようと必死になっていたのです。
彼は最初に、「主 (ヤハウェ) に歌え」と三度繰り返します (1、2節)。その際、恐れ多い御名、「ヤハウェ」を大胆に口にします。そこには、いかなる人でもなく、すべてのみなもとであられる主 (ヤハウェ) ご自身こそが誉めたたえられ、注目されるべきだとの訴えがあります。
なお、「歌え」と命じられた「新しい歌」とは、「新鮮さ」を意味します。後に、預言者エレミヤは、エルサレムが廃墟となった中で、「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22、23) と歌いました。
同じように私たちも、どのような状況下でも、主 (ヤハウェ) の恵みとあわれみを思い起こし、日々「新鮮」な感動とともに「主 (ヤハウェ) に歌う」ことができます。
そしてダビデは、イスラエルの民ばかりか、「全地のもの」が、「主の御名をたたえる」(2節) という世界が実現することを夢見ながら、「主 (ヤハウェ) に歌う」ことを訴えています。
「御救いを 日から日へと告げ知らせよ」(2節) とは、当時としては、主がイスラエルをエジプトから救い出してくださったことから、ダビデによるエルサレムの占領に至るすべてのことを、主の救いのみわざとして後の世代に、「歌」をもって伝えることでした。
それは私たちにとっては、キリストのみわざが現代に救いをもたらしているという霊的な現実を、歌い継ぐことを意味します。それはたとえば日本においては、戦後の憲法によって基本的人権の尊重から聖書的な結婚制度や信教の自由の確立などを含みます。
そして、そのような救いをもたらす「主の栄光」を、自分の身近な人にとどめないで、「国々に語り告げよ」(3節) と勧められます。
なお、「栄光」とは、本来「重い」という意味で、7、8節でも繰り返されるこの詩の鍵のことばです。それはたとえば、この社会で最も影響力があり、小さな意見の相違をも包み込み、安定をもたらす人を、「重い存在」と呼ぶようなものです。主(ヤハウェ)こそが、この世界の安定と調和の鍵で、栄誉を受けるのにふさわしい方です。
また、「語り告げる」とは「記録する」とも訳されることばで、主の「くすしいみわざ」を一つ一つ数え上げ、それを「すべての民に」、印象深く知らせることを意味します。
教会で歌われている様々な賛美の歌は、「主 (ヤハウェ) に」歌われるとともに、主の救いのみわざを人の心にメロディーをもって伝えているものです。宣教と賛美は切り離せません。
私たちは主のことばを理性だけで理解しようとしがちですが、主のみわざを、歌をもって伝えるとき、それは人の心の奥底にまで届きます。
ルターやウエスレーは、福音のメッセージを歌にすることで、世界を変えるような働きをしました。そして、そのような「新鮮な歌」は今も、生まれ続けています。
「主 (ヤハウェ) に歌う」ことは、「主の……くすしいみわざを、すべての民に」宣べ伝えることでもあるという原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。
2.「主 (ヤハウェ) に帰せよ、栄光と力を。 主 (ヤハウェ) に帰せよ 御名の栄光を」
「主 (ヤハウェ) は偉大であり、大いに賛美されるべき方」とは、先の「栄光」を言い換えた表現です。
また、「すべての神々にまさって、恐れられるべき方」(4節) と歌われますが、この世の多くの人々は、自分が社会の中で仲間外れにされることを「恐れ」て教会に来ることを躊躇し、また、何かのたたりに会うことを恐れて偶像の神々を拝むことがあります。
ある宣教師がアフリカの奥地に伝道に行ったとき、人々は、「あなたの神は、どんな災いを起こすのか」と聞いたそうです。それに対して宣教師は、「私たちの神は、災いを起こすような方ではありません」と答えた所、その人は「災いを起こさない神をどうして礼拝する必要があるのか……」とかえって聞き返したとのことです。
残念ながら、異教文化に馴染んだ人には、恐怖こそが信仰の原点になりがちです。しかし逆説的ですが、主を「恐れる」ことこそ、恐怖心からの解放につながります。
さらに「まことに、諸国の民のすべての神々はむなしい」と歌われます。「むなしい(偽りだ)」とは、見せかけだけの「からっぽ」であるという意味です。それに比べ聖書の神は天地万物の創造主です。
たとえば日本で大きな地震や火山の噴火が起きると、自然が怒っているとか、何かの祟りと言われることがあります。しかし地球物理学の先生が、「日本列島は火山活動と地震によって生まれた地です」と言った時に、何か心にストンと落ちました。
火山活動や地震が適度なレベルに抑えられていること自体が不思議であり、それはどんな神々にも無理なことです。だからこそ地球の創造主である神を恐れる必要があるのです。
「しかし、主 (ヤハウェ) は、天を造られた」(5節) とは、世界の原点であり、私たちがいつも覚えるべきことです。人間の技術が太陽の光を真似たものを作ったと言っても、それは本物に遠く及ばないものに過ぎません。
神が創造された「天」(複数)とは、私たちの想像をはるかに超えた全宇宙の広がりと、この世の現実の背後にある目に見えない永遠の世界のすべてを含むものです。
私たちの視野が狭すぎるため、知らないうちに、真の「尊厳(威厳、splendor)と威光 (majesty)」「力 (strength) と光栄(輝き、beauty)」(6節) がどこにあるかを忘れてしまってはいないでしょうか。
「威光」とは、「名誉」とも訳される言葉で、9節にも繰り返されています。また、「尊厳」は「威光」とペアで使われることが多く、「稲妻」をも指します。
また「光栄(輝き)」とは大祭司の衣の美しさなどを現す時に使われる言葉です。
ここで作者は、「主の栄光」とも表現できる概念を、敢えて異なったことばで多様に言い表し、それらが「主の御前」と「主の聖所にある」と歌っています。
7、8節では、「主 (ヤハウェ) に帰せよ」ということばが三回繰り返されます。それは「栄光と力を主に帰せよ」という意味ですが、そのように文章を完結させずに、「主 (ヤハウェ) に帰せよ」ということばだけが繰り返されるのは、何とも不思議です。それは人が、いつもすべての幸せの原因を、人間の手に「帰して」しまうからではないでしょうか。
それでここでは、「栄光と力」、「御名の栄光」ということばが重なって、「主に栄光を帰す」ことが強調されています。
なお、「栄光」の本来の意味は「重さ」であると述べましたが、それは「まことに人間の子らは息のようなもの……彼らを合わせても、息よりも軽い」(詩篇62:9) と言われるような人の「軽さ」と対照的な概念です。
人の愚かさは、その軽い人間の栄光を、神の栄光よりも優先してしまうことにあります。
モーセは約束の地を前にしたイスラエルの民に向って、「あなたは心のうちで、『私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。
あなたの神、主 (ヤハウェ) を心に据えなさい。
主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。もしもあなたが、あなたの神、主 (ヤハウェ) を忘れ、ほかの神々を……拝むようなことがあれば……あなたがたは必ず滅びる」と警告しました (申命記8:17、18)。
しかし、イスラエルは豊かさの中で主(ヤハウェ)を忘れ、滅びてしまいました。これは現代の社会に対する警告とも言えましょう。
現代人は、コンクリートの建物の中と間を忙しく動きまわるばかりで、太陽の光も、小川のせせらぎも、大地の恵みも忘れて生きています。彼らは人間の技術力がすべての富のみなもとであるかのように誤解しています。
パウロは自分の知恵を誇るコリントの人々に向って、「あなたを優れた者としているのは、誰なのですか。あなたの持っているもので、受けなかったものがあるでしょうか。受けたのなら、どうして受けなかったかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7共同訳) と戒めました。
もちろん私たちは、能力を最大限に生かし、世界を少しでも住みよくするために協力し合うべきですが、いのちのみなもとである方を忘れ、だれが「優れた者」であるかを測り、誰が主導権を取るべきかで互いに競い合っているなら悲劇が生まれます。
そのとき私たちの心は、自分の欠けに目が向き、卑しく貧しく余裕がない状態へと駆り立てられるからです。
3.「主 (ヤハウェ) は王である……喜べ天よ 喜び踊れ 地よ」
ダビデは、人々が貢物を携え、王の権威の前にひざまずくことを求める代わりに、「ささげものを携え、主の大庭に入れ。 主 (ヤハウェ) にひれ伏せ 聖なる威光の前に」(8、9節) と勧めました。
それは、心ばかりか自分の身体と財産のすべてを用いて、創造主への感謝を表わす姿勢です。
また多くの人は、この地の権力者の前で「おののき」ますが、「地のすべてのもの」は、この地の真の支配者であるヤハウェにひれふし、「御前でおののく」べきなのです。
ダビデの偉大さは、その順番をいつも覚えていたことにあります。
そしてダビデは、「主 (ヤハウェ)」こそがイスラエルばかりか全世界の「王」であると、聖歌隊がそろって宣言し、歌うようにと命じます (10節)。この告白こそ、この詩の核心です。
そして「主 (ヤハウェ) は王である」と告白し続けたことこそが、ダビデ王国が祝福された鍵です。
あなたの人生では、誰が「王」となっているでしょうか。自分の無力さ、愚かさを忘れた「裸の王様」も悲劇ですが、目に見える人間を「王」とあがめて、その人の期待に添うようなことをしては息苦しくなるばかりではないでしょうか。
今も、主は、この世界の「王」として、全地を支配しておられます。
決まった時間に日が昇り、四季の繰り返しがあるのは、主が「世界を堅く立て」ておられる結果です。地震や洪水があっても、局地的な被害にとどまり続け、この地が「揺るぐことがない」のは、当たり前ではなく、主がノアに対する契約を守っておられるしるしです (創世記8:21、22)。
主はエレミヤを通して、それを「昼と結んだわたしの契約」「夜と結んだわたしの契約」と呼びました (33:20)。
そして、今、主ご自身が私たちひとりひとりに対し、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5) と約束しておられます。主(ヤハウェ)は、「王」として、あなたを守り通してくださいます。
「やがて主は 公正をもって 人々をさばかれる」(10節) とは、「強い者」が「弱い者たち」を虐げ、社会的弱者は自分たちの労苦の実もかすめ奪われてしまうような世の不条理が正されることを意味します。
それは、「救い主 (キリスト)」の到来によってすでに始まっていることです。ですから、イザヤ書11章では「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」という書き出しとともに、ダビデの子として生まれる救い主は、この世の弱肉強食を終わらせ、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し……獅子も牛のように藁を食う」(6、7節) という平和(シャローム)を実現させると預言されています。
そしてここにおける主の「さばき」は、そのような救いの完成のときを指し示します。
それを前提にパウロは「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」(ローマ8:21) と記しています。
そして、その被造物すべての救いの完成の望みのことが、11、12節では、「喜べ 天よ」「喜び踊れ(小躍りせよ)地よ」
「(鳴り)とどろけ 海とそこに満ちるものよ」「歓喜せよ(喜び踊れ) 野とすべてのものよ」「すべての木も 喜び歌う」というほとんど同じ意味をもつ五つもの異なった「喜び」のことばで表わされています。
その際、「そのとき森のすべての木も 主 (ヤハウェ) の御前で喜び歌う」(12節) と、「森の木」に特に目が向けられます。
エゼキエル31章では北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ帝国が「レバノンの杉」にたとえられ、自分の高さを誇ってさばきを受ける様子が描かれています。しかし、世界の完成のときは、森の木は天にそびえながら、主を賛美するのです。世界は全被造物による喜びの賛美に向かっています。
最後に、「主は確かに来られる。地をさばくために来られる。正しく(義をもって)世界を、真実に人々をさばかれる」(13節) と歌われるのは、私たちにとってはキリストの再臨の希望を意味します。
二千年前にキリストが肉の身体をもって来られ、十字架にかかってよみがえられたことは、やがてキリストが世をさばくために再び来られることとセットになっています。
主は罪人をあわれまれたからこそ、「さばき」のときを遅らせておられます。そして、私たちが自分の罪深さを認めてイエスにすがっている限り、この再臨のときを恐れる必要はありません。それはキリスト者にとっては、「祝福された望み」(テトス2:13) だからです。
この詩篇には、聖書の最初から最後までの要約が記されています。この世界には、様々な不条理、悲しみが満ちています。それらを直視しながら、どうして喜んでいることができるでしょう。
しかし、「主 (ヤハウェ) は王である」と告白する者にとっては、どのような悲しみも、歓喜の歌を迎えるための間奏曲に過ぎません。私たちは永遠の喜びの世界に入れられることを保証された者です。その永遠の観点から見ると、どんな悲しみも、束の間の出来事です。
この神秘を、英国の作家、G.K.チェスタトンは、今から百年ほど前に次のように記しています
歓喜は、異教徒の時代にも広く知られたものではなかったが、キリスト教徒にとっても巨大な秘密である……この人はみずからの涙を一度も隠しはしなかった……だが彼には何か隠していることがあった……彼は一度もみずからの怒りを抑えようとはしなかった……だが彼には何か隠していることがあった……
神がこの地上を歩み給うた時、神がわれわれに見せるにはあまり大きすぎるものが、たしか何かしら一つあったのである。
そして私は時々一人考えるのだ——それは神の笑いではなかったのかと。
今、神が沈黙しておられるように感じるのは、私たちの霊の耳が聞き分けることのできる音が限られているからかもしれません。天には既に神への喜びの賛美が響いているのではないでしょうか。私たちはその喜びの声が、あまりにも大きすぎて聞こえないのかもしれません。
私は今頃になってベートーベンの交響曲第九の最後の合唱の歌詞に感動を覚えるようになりました。昔はそこにある異教的な言葉遣いにつまずいて、それをたたえる信仰者に、「歌詞の意味が分かっているの?」と心の中で言っていました。今はそれを深く恥じています。
最高の芸術は、鑑賞者による自由な解釈を呼び覚ます力があります。
この詩の題名は、「喜びに寄せての賛歌」が直訳です。この歌詞はもともとフリードリッヒ・シラーというドイツの詩人が、フランス革命前の社会の変化に感動して作ったものです。その革命が起きた1789年はベートーベン19歳の時で、その詩に合わせて彼は希望に溢れていました。
しかし彼がこの詩を交響曲にした1824年は、まさに絶望のときでした。フランス革命がヨーロッパ全土を巻き込む戦争で終わり、古い体制が復活しました。そして彼の耳もどんどん悪くなって自分が書いた曲も聞こえなくなっていました。
彼はそのような中で、シラーの詩をまったく異なった視点から解釈したのだと思われます。
それが、彼が自分で付け加えた最初の歌詞、「友らよ (フロインデ)、このような調べではない、もっと心地よいものを歌い始めよう、もっと喜びに溢れながら」に現されているという見解があります。それは天から来る希望の歌です。
喜び (フロインデ) よ、麗しき神々の閃(ひらめ)き、楽園の乙女よ、
我らは火に酔って、天のあなたの聖所に踏み行こう。
あなたの魔法こそ、時流が引き裂いたものを 結び合わせる。
柔らかな御翼のもと、すべての人々は 兄弟とされる。
ひとりの友ら (フロインデ) の友となることを 成し遂げ、
また心優しい妻を得られた者よ、 自身の歓喜に声を合わせよ。
そうだ ただひとつの魂とでも、この地球で心を合わせられることを喜べ。
それができない者は 泣いて立ち去る。
喜び (フロインデ) を、すべての存在が、自然の乳房から飲む。
すべての善人も悪人も、自然のバラの道をたどり行く。
それは口づけと葡萄を、死で試された友 (フロインデ) をくれた。
快楽は虫にも与えられるが、 ケルブは神の前に立つ。
喜び勇んで 神の諸々の太陽は 天の計画を駆け巡る。
兄弟よ、その道を走れ、喜ばしく 勇士が勝利に向かうように。
抱き合おう、幾百万の者よ。 この口づけを、全世界が受けよ。
兄弟よ、星空の上に 愛しい父がおられるのだから。
ひれ伏すか、幾百万の者よ、創造主を感じるか、世界よ。
星空の上に 神を求めよ、 神は王座に着いておられる。
「喜び」こそが、この世で引き裂かれた者たちを一つにする力を持っています。しかもその「喜び」とは、たった一人の人と友となり、心を合わせられるということから生まれます。私たちに求められていることは置かれた場でただ最善を尽くし続けることです。
そしてこの全宇宙を「王」として治める神は、「新しい天と新しい地」を最終的に創造され、そこにおいて私たちを一つにしてくださいます。
神はこの世界を平和の完成へと導いておられます。それを先取りして、私たちは今ここで、どのような暗闇のでも喜ぶことができます。
そしてさらに、その「喜び」こそが、この世界を導く魔法の力となります。そのような「喜び」を通して、神の支配が広がることを覚えましょう。
「いつも主にあって喜びなさい」、これこそ詩篇96篇のテーマです。